スポーツブランドは
生活の一部

スポーツブランド その6

プーマ

プーマ(Puma SE)の本社は、ドイツ、バイエルン州ミッテルフランケン・ヘルツォーゲンアウラハを本拠地とするスポーツ用品の製造・販売を行う多国籍企業です。

1948年に、ルドルフ・ダスラー(アディダスの創業者アドルフ・ダスラーの兄)によって設立されました。1959年に株式合資会社(KG)、1986年に株式会社(AG)、2011年に現在の欧州会社(SE)に組織変更してきました。現在はフランスの大手グループ・ケリング(旧PPR)傘下にあります。

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プーマ創業の歴史

プーマの創設者のルドルフ・ダスラーは、ドイツはヘルツォーゲンアウラハで製職人として働く父クリストフと、小さな洗濯屋を営む母パウリーナの次男として生まれました。1924年、ルドルフは弟アドルフ(愛称:アディ)・ダスラーが設立した製靴工場に参加するために、ヘルツォーゲンアウラハに帰りました。彼らは新しい事業を行うにあたってダスラー兄弟製靴工場(Gebrüder Dassler Schuhfabrik)という名前を付けました。兄弟は彼らの母親が使っていた洗濯室で、このダスラー兄弟製靴工場を開始しました。創業当時は、町の電力供給は心もとなかったので、兄弟はしばしば据え付け自転車のペダルを漕いで機材を動かしていました。

弟のアディはスーツケース一杯のスパイクを携えて、1936年夏季オリンピックが開催されるベルリンに向かい、アメリカ合衆国の短距離走者ジェシー・オーエンスを口説き落としました。オーエンスはこのベルリン大会で4つの金メダルを獲得しました。これを契機に事業は波に乗り、ダスラー兄弟は第二次世界大戦前に年間20万足の靴を販売していました。

☆ダスラー兄弟分裂、そしてプーマ設立へ☆

ダスラー兄弟は、ふたりともナチ党に入党しましたが、ルドルフの方が少しばかり党に近い立場をとりました。そして兄弟間の亀裂は1943年の連合国の爆撃下で限界に達しました。防空壕の中でアディが言い放った言葉があります。「ほら、またあのいまいましいろくでなしどもだ」という発言は連合軍の爆撃機に対しての発言でしたが、その言葉をルドルフは自分と家族に向けられたものだと考えました。ルドルフが武装親衛隊の一員であった容疑でアメリカ軍の兵士に逮捕されたときも、ルドルフは弟が自分を密告したためだと確信していました。ルドルフはアメリカ軍に逮捕されましたが、逮捕から約1年後の1946年7月に釈放されました。

1948年4月に、ダスラー兄弟は袂を分かつことになります。ダスラー兄弟製靴工場の資産は工場をはじめ、設備、特許など兄弟間で細かく分割しました。販売部門の従業員の多くはルドルフに付いて行きました。技術者の多くはアディのもとに残りました。ルドルフはアウラハ川の対岸にルドルフの Ru とダスラーの Da を合わせたルーダ (Ruda) という会社を作りましたが、すぐにより軽快な印象のプーマ・シューファブリック・ルドルフ・ダスラー (Puma Schuhfabrik Rudolf Dassler) へと社名を改名しました。弟のアドルフは社名に自身の愛称(Adi)と、苗字の最初の3文字(Das)を合わせてアディダスという名前を付けました。

1948年10月、ブランドネームと最初のロゴ(ダスラーの頭文字「D」の中を、ネコ科の動物がくぐり抜けているデザイン)が登録されました。この最初のロゴは2000年代に「PUMA Black Label」の「Rudolf Dassler Schuhfabrik」コレクションのロゴとして復活しました。

☆プーマ草創期とアディダスとの競争☆

ダスラー兄弟が分裂した後、プーマとアディダスは熾烈な競争関係に入りました。この問題についてヘルツォーゲンアウラハの町もふた手に分かれることになります。町の人々が他人が履いている靴を確認するため頭を傾ける様子から、ヘルツォーゲンアウラハ町は「首を曲げた町」という渾名が付けられたほどです。町にあるふたつのサッカークラブもまた同じように、ASVヘルツォーゲンアウラハはアディダス、FCヘルツォーゲンアウラハはプーマのサポートを受けました。ルドルフの家に下働きの人達が呼ばれた時には、わざとアディダスの靴を履いてルドルフの家へ行きました。ルドルフは彼らに対して地下室から無料のプーマを一足持ってくるように言い、そのままプーマの靴を与えました。ダスラー兄弟はその後も決して和解はしませんでした。兄弟は同じ墓地に埋葬されましたが、距離はできるかぎり遠ざけられています。

1948年、第二次世界大戦後最初のサッカー西ドイツ代表の試合では、戦後最初のゴールを決めたヘルベルト・ブルデンスキを含む複数人の選手がプーマのスパイクを履いていました。4年後の1952年ヘルシンキ夏季オリンピックでは、1500メートル走でルクセンブルグのヨジー・バーテルがプーマを履いて金メダルを獲得する最初の選手になりました。

1960年代に入ると、自社製シューズを履いてもらうためにスポーツシューズメーカーがアスリートに金銭を支払うことが常態化していきます。オリンピックの開催時期にはプーマのアルミン・ダスラー(ルドルフの息子)と彼のいとこにあたるアディダスのホルスト・ダスラー(アディの息子)が宿泊するホテルの部屋の前には、報酬を受け取ろうとするオリンピック選手たちの列ができたという程でした。。1960年夏季オリンピックで、プーマはドイツ人の短距離走者アルミン・ハリーに100メートル走決勝でプーマを着用してもらうために報酬を支払っていました。それまでアディダスを履いていたハリーは、アドルフに金銭支払いを求めましたが、拒否されていました。ハリーはプーマで金メダルを獲得しましたが、表彰式にはアディダスを履いて現れました。この出来事は、ダスラー兄弟に衝撃を与えました。ハリーはプーマとアディタスの両者から報酬を得ることを望んでいましたが、アディは立腹して、このオリンピックチャンピオンを出入り禁止にしました。

「1970 FIFAワールドカップ」に先立って、アルミン・ダスラーとホルスト・ダスラーは「ペレ協定」と呼ばれる協定に調印することになりました。これはサッカー界のスーパースターのペレとの契約をめぐる争いが起きれば、金額の高騰に歯止めがきかなくなるのが明らかであったので、ペレにはアディダスとプーマ双方が関与しないとする取り決めによる「ペレ協定」でした。しかし、プーマの代理人ハンス・ヘニングセンが総額12万5000ドルと、彼の名前を冠したシューズのロイヤリティという条件でペレと契約を結んだことによって、ペレ協定は破られることになりました。そして、ワールドカップ決勝戦の試合開始直前に、ペレは審判に靴紐を結び直すための猶予を求めます。ペレの靴紐を結び直す姿は、何百万人ものテレビ視聴者が画面に大写しになった彼の足元のプーマを見つめることになりました。サッカーオランダ代表のヨハン・クライフとプーマが交わした契約書には「他のスポーツブランドを宣伝する行為は慎むこと」という条項がありました。その契約書のため、オランダサッカー協会がアディダスと契約した後も、クライフはスリーストライプではなく2本線が袖に入ったシャツを着てプレーしていました。

1970年代と1980年代

1974年10月に、創業者のルドルフ・ダスラーが死去します。ルドルフの遺言状には、プーマの所有権は次男ゲルトに相続すると書かれていましたが、法律上は遺言状より合資会社(KG)の定款が優先されるために、実際は長男アルミンがプーマ株式の6割、ゲルトが株式4割とその他の遺産を相続することになりました。新CEOに就任した長男アルミンのもとで、プーマはその後約10年で売上を5倍に伸ばすことになりました。

1980年代プーマの取った戦略は、アメリカ市場において大量のシューズを格安で売りさばくといった戦略でした。この戦略は、短期的には利益を生むことになりましたが、廉売店に並ぶ安物シューズというイメージは結果的にブランド価値を落とすことになり、全米最大の靴販売チェーンのフットロッカーがプーマの取り扱いを控えるといった形になりました。

1986年7月、プーマは株式会社に移行します。そしてフランクフルトとミュンヘンの証券取引所に上場しました。上場当初こそプーマの株価は急騰しましたが、アメリカ市場での苦境がドイツに伝えられると株価は下がっていきました。1989年5月、ダスラー家が保有していた72%の株式がスイス企業コサ・リーベルマンに売却されました。プーマで働いていたルドルフの孫達も会社を離れることになり、プーマとダスラー家の繋がりはなくなりました。

1990年代以降

1993年、ヨッヘン・ザイツが当時ヨーロッパの上場企業で最年少となる30歳で最高経営責任者 (CEO) に就任しました。ザイツがしたことは、人員削減や生産工場のアジア移転など徹底したコストカットを図る一方で、新たにマーケティング部門を設立するなどして、広告宣伝費は大幅に増やしました。1990年代中盤以降、プーマの業績は好転して、2003年には株価が1993年の16倍以上にまで上がることになりました。

1998年、プーマはジル・サンダーとのコラボレーション・モデルを発表します。スポーツメーカーと高級ファッションブランドのコラボレーションは驚きをもって迎えられ、競合スポーツメーカーもこぞって有名ファッションブランド/デザイナーとのコラボレーションに乗り出すという流れをプーマが先駆けて作りました。

2007年4月、グッチやイヴ・サンローランといったブランドをグループ内に抱えるフランスの流通持株会社PPRが53億ユーロでプーマの買収計画を発表しました。PPRはまずプーマの筆頭株主だった投資会社メイフェアから株式27.1%を買い取った後、7月初頭までに全体の62.1%を取得しました。現在もフランスの大手グループ・ケリング(旧PPR)傘下にあります。

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